お笑い「帝国」からの逃走もしくはノマド的笑いの可能性について

前回、折角頂いたpunch-lineさん、nishiさんのコメントにご返信が出来ておらず申し訳ありません。またこのブログ自体の更新も頻度が低くなっていました。諸々慌ただしかったのもありますが、どうもこの半年ほど、地上波の全国ネットで見るお笑いに新しさを見出すことが少なく、それがなんでなのか、あるいはもう少し違った見方は出来ないものかと考えてみていました。で、今回はその試論となります。

このブログを始めた最初の段階からの認識として、今の地上波・全国ネットのネタ番組は大きな構造を持っている、横に広がる量と縦に上昇する質の両面を兼ね備えて非常に安定的に発展していると書いたつもりで、だからこそ、ひとつの大きな影響力をもつ文化ジャンルとしてのお笑いについて語るべきだろうと考えていた。そしてその考えは根本的に変わっていないが、そのことをただ顕揚しても仕方がないのではないかと思い始めた。

お笑い帝国の形成と完成:
今、地上波を中心とするお笑い・ネタ番組の世界は大きく次のような構造を持っていると思う。

1)”すべらない話”を最高峰とし、M-1キングオブコント(+R-1)を中心とする縦の軸。このラインが現在のお笑いの”質”を形作っている。いわば、ここで評価された芸人が今のお笑いの”正解”を出したと言え
る。
2)”レッドカーペット”的な横の軸。これはいわば笑いの”登竜門”であり、若手からベテランまでが並列に並べられる。ここで評価されることは、いわばTV芸人として戦える資格を与えられることでもある。
3)”あらびき団”的なあらびき芸の紹介番組。あらびき団はもともと、”エンタの神様”への批判、パロディ的にはじまったが、現在は、”レッドカーペット”のカウンターとして機能している。かつ、重要なのは、この
  番組とレッドカーペットは互いの対する批判として機能しながら、互いを攻撃するものではなく、むしろ補完しあうことで構造を安定化させている。
4)”アメト−−ク”的な、お笑いを”メタ”なレベルで語る業界番組。これはいわば作品に対する批評であり、上記3)と同様、もしくは文芸に対する通常の文芸批評と同様、構造をより安定化する機能を持っている。

上記の特性は、1)が松本人志(すべらないは、千原ジュニアを番頭とする)、2)が今田耕治、3)が東野こうじ、4)が雨上がりと、すべていわば松本人志とその遺伝子を直接に引き継ぐメンバーが形作っている点だ。
一方、”レッドシアター”は内村光良をチェアマンとする本格的なネタ番組だが、そもそもウッチャンとは、”夢で逢えたら”以来、松本人志的な”ネタ”志向へのひとつのカウンターとしての意思を持ち続けながら、実はネタの強度ではなくポピュラリティーにおいてようやく対抗軸となりえた存在である。つまり、本人の意思にかかわらず、ウッチャン的な試みは結局上記の世界を壊すものではなく逆に補完する役割を持っているのであり、実際、レッドシアターメンバーはもともとレッドカーペットから登場した人材であり、最近ではキングオブコント、○○な話といった、1)のラインへの参入を開始している。

つまり、現在地上波・全国ネットで見ることのできるお笑い・ネタ番組とはほぼ松本人志を中心に縦横の構造、それを批判しつつ補完するカウンターから成り立っており、そのありかたは極めて安定的である。それはひとつの”エンタープライズ”とも言え、実際、その構造を熟知した機を見るに敏な芸人たちは、その中での”出世””処世”についてのマニュアルをネタのレベルにおいても習得している。あるいはその構造を、ひとつの産業として見ることもできるだろう。例えばファッション産業としてたとえれば、いわば”すべらない”とは各国の有名メゾンのオートクチュールが競い合いその年のファッション産業全体の方向性を指し示すコレクションと言え、”レッドカーペット”とはその磁力のもとで、工場で形作られるさまざまなファストファッションと言える(ベルトコンベアを流れていく芸人)。そして、もう言うまでもないことだが、地上波・ネタ番組をひとつの世界とするなら、現実の世界におけるアメリカと同様、その構造は、唯一の”帝国”として機能し、君臨しているのだ。

安定化した帝国。その見事さを顕揚することはたやすいし、そもそも、”面白いということはかっこいいんだ”と恐らくは日本で初めて明言した松本人志が、常に前線に立ちながら、ときには求道者のようにしてただひとりストイックに”ネタ”の本質を追求してきたことを考えれば、その大きな場所を築くことが彼にしか出来なかったことは当然のことのようにも思える(それに個人的なことを考えても、僕自身、関西に住んでいた子供時代にダウンタウンの衝撃を受けて以来、その影響下にあるわけで、自分自身お笑いのことを考える上でその磁力からはまったく自由ではないのだ)。

しかし、一方で思うのは、帝国は長らくその安定化を着実に進め、昨年のキングオブコントの成功(08年度は最初の模索だった)などによって、ほぼ完成されたのではないか、ということだ。それはすごいことだがしかし、このブログでも繰り返し書いてきたように、というか、このブログの主張が当初の考えに反していつのまにかほとんどその一点に絞られてしまいつつあるのかもしれないように、お笑いとは常に外に出るということであり、この地面の硬さを疑うものであり、言葉が人に通じるというこの目の前の自然さを覆すものであり、自分が今生きているこの世界を幻の中に一瞬にして消し去ってしまうものなのであってみれば、お笑い帝国とは、その帝王のまぎれもない良心と正しさにもかかわらず、その安定化、制度化によって、お笑いそのものが本質的に志向する自由と気ままさを自ら奪い去るべく機能し始めてしまうものではないか。いわば、帝国は自らを食いつぶしてしまうウロボロスの蛇と化してしまうのだ。

なんだか、力んだ書き方になってしまっていて、それはそれで、”お笑い”にかかわる文章としてどうかとも思うわけだけど、お笑いの本質的な自由さを思うときに、そろそろその豊かで、居心地のよい帝国を離れないといけないのではないかと思う。帝国を離れた、安住する場のない、ノマド的、遊牧民的な笑い。その可能性について、いまは語るべきなのではないか?

では、ノマド的な笑いとは何か?それについては、その定義も含めてもう少し考えてみないといけないけど、このブログではしばらく、全国区の地上波を離れた、お笑い、ネタについて見ていきたい。例えば、(東京では)テレビ東京で見れる、きらきらアフロ的なものや、モヤモヤさまあ〜ず2的なありかたは、まるで羊を追うようにネタ=事件の生成を見せるという意味で、ノマド的な笑いと言えるのではないか?MXTVのバナナ炎は、往年の”がきの使い”をほぼ踏襲しながら、その精神においてやはり自由を生きてはいないか?ゴットタンも帝国的な構成を離れたバラエティの新しい可能性を提示してはいないか?そもそも、僕のアンテナが低いだけで、テレビの中だけではない場所にこそ、帝国の磁力を離れた新しい笑いはあるのかもしれない。どこまでうまくやれるかわからないけど、しばらくこのブログでは、その方向での模索をしてみたいと思う。