お笑いとポストモダン ③ −2000年代の現在についての試論−

ずいぶんと間が空いてしまったし、今のお笑いの環境について触れる前に、90年代についても書いておこうと思っていたが、一足飛びに現在について簡単に書いておきたい。90年代の総括はいつでも出来るが、現在の具体的なお笑いというかネタについて書いていくにあたって、正直、まだ考えがまとまってないのだけど、今考えてる方向性くらいには触れておいたほうがいいように思ったので。

現在は、かつて80年代のようなイデオロギーとして機能していたポストモダンの時代と違い、ポストモダンが環境として実現した時代だ、という仮説を立ててみる。言葉のとおり、近代−後の時代だということだ。端的にそれは、ウェブ環境の整備と全面的な普及によるものだ。ウェブ環境の中で、あらゆる知がストックされる。そこでは、それぞれの知の質的な差はなく、すべてが均質な情報となる。

今、お笑いはwebと切っても切り離せない。小島よしおがブレイクした最大のきっかけとなった、2007年のフジテレビ27時間テレビ、深夜での熱湯風呂事件がよい例だ。ダチョウ倶楽部との絡みの中で、熱湯風呂が実はぬるま湯だということを暴露してしまうという失態を演じたわけだが、リアルタイムで見損ねたその映像を見るために、視聴者がyoutubeに殺到し、”小島よしお”がyoutubeの検索順位の一位になり、映像関係者はだれもが驚いたのだった。そして、それだけでなく、youtube検索一位のジャンルは、今もずっと「お笑い」なのである。

2007年から始まった「爆笑レッドカーペット」は、そのようなwebとお笑いの形を、地上波の番組構成に取り入れたものであると言える。テレビで芸人がショートネタを演じる。それがyoutubeにアップされ、「あのネタが面白かった」という口コミをもとに、テレビで見なかった視聴者がweb上でその短いネタを見る。それで笑った人が次週、テレビ番組を見る、という相乗効果が発生している。
また、ベテランと無名の新人が、あのフォーマットの中で演じる順番も関係なく出演するという形も、質的な差異を排除するweb的な指向だと言えるし、毎回一応、「レッドカーペット賞」なるものを芸人にあげているが、それは、高橋克己が恣意的に選んだゲストがその一存で決める、という回りくどいやりかたによるもので、あくまで便宜的なものだ。意図的かどうかは別として、ここにも、質的な差異を発生させまいとする用心深さが働いている。「レッドカーペット」のフォーマットは、そういう意味で、極めて現代的な、つまり近代−後のお笑い番組のありかたの、最も象徴的な事例だと言えるのではないか。

問題は、たとえば80年代のビートたけしを、80年代的な思想の体現者として批評することは可能だが(ある作品やネタを分析することで、時代を語るといった切り口)、上記のような近代−後の笑いを、同じように批評することはできるのだろうか、ということだ。時代の精神は、もしかすると、環境化したフォーマット側にあり、ひとつひとつの作品やネタは、その中で並列に並ぶほかないのではないか。そのような時代において「お笑い」批評なるものは可能なのだろうか、ネタを語ることに果たして意味があるのだろうか?そしてその問題は恐らく、「お笑い」だけを巡るものではないはずである(宇野常寛ゼロ年代の想像力」が心もとないのは、作品を語ることで「時代批評」を行うことが可能である、と、作者がどこかで確信しているところにある)。

結論がまだ出ていなくて、話が粗くてお恥ずかしい限りだが、いまのところ、そういうことをぐるぐると考えている。道筋がもう少し見えるといいのだけど。

更に、現在の「お笑い」について、考えておかないといけないものがもうひとつある。

上記のような、近代−後の「お笑い」のあり方の対局に、M-1、R-1、すべらない話、などがあるということだ。それらに共通するのは、「ガチで誰が一番面白いか」という、まさに「質」だけを競う真剣勝負の場であるということである(キングオブコントは、まだ形が確立されていないように感じるので、ここでは保留とする)。これは90年代から00年代前半に隆盛を極めた総合格闘技と同じ指向性を持っている。冷戦後の歴史の再開の中でリアルなものを指向するという、正しく90年代的な方向性が具現化したものであるが、この「質」を問う上部構造が、現在、日本の「お笑い」の権威付けと価値観の方向付けを行う場所として機能している(では、この上部構造が指向する「価値観」を語ることが、批評なのだろうか?そうではないように今の僕には思われるのだが)。

この相反するふたつの方向性(縦軸=M-1、R-1、すべらない話、横軸=レッドカーペット)がたがいに補強し合っている(そういう意味ではものすごく安定している)のが隆盛を誇る、日本の「お笑い」の現状である。そのバランスは、今後どうなっていくのだろうか。90年代的な上部構造が崩れていき、本当に、近代−後的な環境が全面化するのか、もしくは、そうではないのか。それによっても、ここで書いたような疑問に対する回答は大きく違ってくるのだろう。