「ネタ」の唯物論的な擁護のために?

今年のR−1ぐらんぷりを見ていて、なんだか、蓮実重彦の「魂の唯物論的な擁護のために」という、奇妙なタイトルをつけられた対談集のことを思い出した(もう絶版になってるみたいだけど・・・)。
その中で、彼はタイトルとも関連するこういうことを言っている。

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(前略)何か例外的な体験を作家たちから提供されたいと願っているのではない。待っていたわけではない記号と遭遇したときに、初めて「待つ」ということの意味が開示されるような瞬間を信じていると言ったらいいのでしょうか。それは、期待という名で誰もが知っている「観念論」的な姿勢を無効にする記号です。ゴダールの新作がそのつど教えてくれたのは、待つことの「唯物論」であり、それが世間一般の「観念論」的な期待を揺るがせる。そのような記号との出会いを、僕は、「魂の唯物論的な擁護」という言葉で語っています。
待つことの「観念論」はイメージの問題にすぎません。作家のイメージ、作品のイメージ、それをめぐるイメージ・・・。イメージには記号の魂を欠いているのです。(後略)

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乱暴を承知で要約してみると、そもそも誰かの新作を期待して待つ、ということは、作者自身やその作者の過去の作品へのイメージからの類推で、待っている。つまり、勝手に作り上げたイメージとしての「期待の地平」、予め枠組みのようなものを設定して待っているにすぎないのだ、ということを批判している訳で、新しい作品と「出会う」ということは、常に、その既存のイメージの枠組みを越える、あるいは事後的に組み替えてしまう「事件」なのだ、ということになるだろう。

さて、今年のR−1ぐらんぷりには、そういう、「出会い」あるいは「事件」があったように思うのだけど、如何でしょう?
ひとつは、バカリズムの新ネタ。もうひとつは、山田與志のフリップ芸。

バカリズムは、都道府県を持つとしたら、というありえない発想で、見る側がそれまで持っていたある常識というか思考の枠組みみたいなものを揺らした。
山田與志は、テニスの得点表という、そもそもフリップの使い方としてあまりなかった設定を立ち上げながら、自らその設定の意味を次々にずらし、最後は、文字通り、フリップの枠組みそのものから飛び出してしまった。

いずれも、ある既存の期待の地平を揺らせ、その外側を垣間見せることで、僕たちが何かを考えるときに(知らない間に)前提としている枠組みを組み替えてしまった。
大げさに聞こえるかもしれないけど、そこで起こったことは、ゴダールの新作の周辺で起こったことと、原理的に同じものだ。

何でもいいのだけど、比較する上で、今年芥川賞を受賞した津村記久子「ポトスライムの舟」という小説のことを考えてみる。
津村記久子は、例えば「カソウスキの行方」という作品で、人の人に対する感情みたいなものについて、いい意味で悪意のあるものを書いたりして、なんというか、それも「枠組みを揺らす」ようなものであったわけだけど、今回の「ポトスライムの舟」はそうではなかったように思う。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9D%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%81%AE%E8%88%9F-%E6%B4%A5%E6%9D%91-%E8%A8%98%E4%B9%85%E5%AD%90/dp/4062152878

現代の、いわゆる下流に生きる女性たちの日常を書いた作品。主人公のナガセは29歳で、契約社員として化粧品のラインで働いている。年収(163万円)と同額の世界一周旅行に行くために、
金を貯めようとするが・・・、というようなお話。
どうも、この作品は、「現代の下流社会」という週刊誌的なというか、ステレオタイプなイメージ、設定が前提とされているように思える。彼女たち、下流の女性たちの姿が、水にぽんと入れておくだけで生き生きと生きているポトスに暗喩的に重ねられたりするところも、旧来の(しかも信じられないほど初歩的な)近代文学の手法に寄りかかっているように思えて、ちょっと驚いた。

バカリズム山田與志がR−1で見せた運動が、外へと向かう運動、枠組みそのものに触れ、その枠組みを広げようとする運動だったとすれば、津村記久子芥川賞受賞作で見せた運動は、まるでその反対のベクトルを持った運動だったように思う。枠組みの中へ。既存のイメージとしての「文学」の中へ(実際、主人公のナガセは、最終的に世界旅行には行かず、日常へと(元々そこから出ないのだけど)戻っていくのだった)。

外へと向かう運動は期待とともにあり、内へと向かう運動は安心とともにある。
作品として、どちらでないといけないと、最終的に言う気はないけど、少なくとも作品を批評する言葉というのは、前者の運動に触れたときにはじめて動き始めるものなんだと思う。

ここでようやく、では、「作品批評」というものが今なお可能なのか、必要なのか、というこのブログが保留している問題にたどりつくわけですが・・・、これについては、やっぱりしばらく保留ということで。