お笑いはお笑い芸人にしか分からない、ということ

僕は知らなかったのだけど、2年ほど前に、「検索ちゃん」で、爆笑問題太田光品川庄司品川、土田晃之の3名が、そのタイミングのM-1グランプリについて誰かが「今年のM-1は小粒ぞろいだった」と書いていたことを巡って、「お笑い評論家って一体何なのか?」「ネタを作ったことがあるのか?舞台で結果出したことあるのか?」というようなやりとりをしたことがあったらしく、そのことが当時、ネット上で小規模な議論を引き起こしたらしい。

http://d.hatena.ne.jp/Sugaya/20070510/1178791853

大体同じような時期に、保坂和志高橋源一郎が、(高橋源一郎保坂和志に同調する感じで)「小説のことは小説家にしか分からない」という趣旨のことをよく言っていて、僕は単純にそのことを思い出した。

作者は、無数の選択肢の中から、その都度、ただひとつの言葉を選び、ひとつの言葉の連なりを形作る。その背後には、選ばれないまま捨て去れられた無数の言葉の残骸があり、その意味において、言葉を書くことというのは、不可避的に貧しさを選び取ることでしかない訳だが、一方で、批評家=読者は、結果として目の前に現れたひとつの言葉の連なりの背後に累々と転がる無数の可能性のことなど夢にも思わず、その必然的な貧しさのみを追体験し、更には積み上げられたその一連の言葉を、「つまりは、この小説はこういうことを言いたかったに違いない」と、ますます貧しいひとつの意味の中に閉じ込めようとしてしまうわけなのだから、そこで起こっている事態とは、言葉を巡る、一貫してひとつながりの、貧困化と疲弊化の過程でしかないのかもしれない。

もちろん、実作者たちが「小説のことは小説家にしか分からない」という挑発的な言葉で言おうとしていることは、そのような事態とも関係がないだろう。

作者が小説を書くということは、ただ恣意的に言葉を選んでいくことではなく、小説そのものが持つ、有機体としての運動性に自分自身の身を投じる体験でもあるわけで、そこに現れる作者像とは、一般にイメージされるような、作品の支配者としての存在ではなく、書かれつつある言葉そのものの外部性によって解体されていく、そしてそのことによって同時にその外部性と繋がっていくような意識のあり様と言えるかもしれない。しかしながら、おそらくは具体的な体験談として語られるそのような言い分も、多くの読者にとっては、秘教的な神秘主義(超越的な自然に対して、雨乞いをするシャーマンとしての作者、のようなイメージ)としてしか捉えられないのかもしれず、それは例えば、「わたしは天の意思と通じた」という主張と同種の胡散臭さとともに受け取られざるをえないのかもしれない。結果的に雨が降らなかった場合のことは言うまでもなく、仮に雨が降ったとしても、民衆は、それはシャーマンの神秘的能力とは関係なく、たまたまその時気圧が変わったためだ、と平気で言い張ることができるのである。
実作者たちは、そんな読者=批評家の感じ方自体を感知し、前もってそのようなありかたとの絶交を宣言してしまったとも言えるだろう。

「お笑い評論家って一体何なのか?」という言い分は、文芸の世界で、実作者と文芸批評家が、密接で双方向的な運動を行い得たという歴史的な時代があった(と言われる)中で語られた「小説のことは小説家にしか分からない」という、確信犯的な挑発に比較すれば、ずいぶんとナイーブな主張だと思う。プロ野球選手が、ファン達が「今年の**は仕上げが悪い」とか言っているその言葉を捉えて、「じゃあ、お前が打ってみろ」と言い返しているようなものだ。しかし一方で、笑いに対する二次的な言葉のレベルやあり方自体も、同時に問われなければならないだろう。芸人たちの言葉は、今なおどこかに存在する、お笑い芸人を下に見るような風潮へのいらだちのようにも聞こえるからだ。プロ野球選手が「じゃあお前が打ってみろ!」と切れないのは、前提として彼らが選ばれた特別な存在であるということを、彼ら自身もファン達も認識しているからだ。

「お笑い批評」という何重にも蔑まれざるを得ない二次的な言葉が、それでも目指すべきなのは、お笑いという表現を今なお取り巻く、そんな不当さへの抵抗と言えるかもしれない。