ロンドンハーツ、永井豪、そして、結局、レッドシアター

昨日、ネタ見せ番組の勢いが全体的に落ちてるんじゃないか、ということを書きながら、ロンドンハーツのことを考えた。いわゆる「ネタ」が見れる番組ということに限定せず、広くバラエティ番組という枠で考えたときに、「ロンドンハーツ」という番組は、やはりすごいんじゃないか、と改めて思ったのだ。
この数カ月を振り返っても、元々ミュージシャン志望だった狩野英孝に、歌手デビューの話を持ちかけるドッキリ(50TA)は本当に出色の出来だったと思うし、3月ぐらいにやっていた、10周年を振り返る特番を見ていても、歴代の、出川哲郎青木さやか、そして狩野英孝のドッキリは、その仕掛けの大きさ、予想を越える展開に目が離せなかった。芸人という素材の旨みの引き出し方が半端でなく見事だと思う。

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ロンブー淳的な能力というのは、「ネタ作り」=クリエイター的なそれというよりは、仕掛け人というかプロデューサー的な能力という整理に一旦はなるのだろうが、例えば、作家や漫画家が実際に創作する現場のことを思ったときに、ロンブー的なありかたと、クリエイターたちのポジションには、実は大きな隔たりはなさそうである。小説家が、事前に考えた小説のアイデアを、実際に書かれつつある言葉の運動による要請に従い次々に変更していくことはよくあることだし(いわゆる、人物が自分で考え出す、とかいうのも、そういう状態である)、むしろそういう作家的なありかたこそ、言葉という物質性と真に向き合う、その困難を受け入れた書き手として歓迎すべきであろうとも思うわけだが、漫画家でも、例えば巨人・永井豪のことを思ったときに、同様のことが言えるだろう。若干の神話化とともに語られるところでは、永井豪は、まさに、書かれつつある物語の要請、物語の欲望のみに忠実に殉ずる書き手である。例えば、「デビルマン」というあの震撼すべき傑作の結末を、彼は決して前もって構想していたわけではない。連載を続けているうちに、何か他の力に引き込まれるようにして、最終的には、ひとコマ書いてはベットに倒れこむような消耗の中で、あの見事な最終ページを作り上げたのだったし、また、「バイオレンス・ジャック」という、10年なりの年月をかけて書き継いだ長大な物語が、実は「デビルマン」の続編であったことを、連載の終盤になり、作者自身も知ることになったりもする。(実際の物語の展開上も、ある人物を重要なキャラクターとして登場させながら、次の瞬間にはあっさりと殺してしまい、そのことに作者自身が驚いたりしている。作者の意図に反して、その人物を作品が必要としなかったのである)。

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一方で、「ロンドンハーツ」の仕掛けを考えたときに、そこには、仕掛け人が頭で考えた展開、自己完結めいた想定もある程度ありつつ、その過程において、あくまで仕掛けの対象、つまり、前提として企画のことを知らずどう動くか分からない”他者”と向き合い、不測の事態を処理しながら、あるストーリーを、自らも驚きながら紡いでみせる、語り手の姿が浮かび上がる。作り手側の想定、思惑を、他者(登場人物)が大きく超えていくときに、傑作が生まれるのである。それは、言葉の物質性や物語の自働性に向き合いながら、書き進めている自分自身が目の前に起こりつつある事態に驚く、つまり、作品を書くことが同時にひとつの”事件”を生きることでもあるような、優秀な書き手たちのあり方と原理的に同じものだ、と言うことができるだろう。

そこから翻って、「ネタ」について考えれば、「ネタ」は決して、その”出来の良さ”を競うものではない。自己完結こそが、最も避けられねばならないものだ。「ネタ」もまた他者に向かって開かれ、ひとつの事件として生きられるものでなくてはならない。例えば、「爆笑レッドシアター」は、そんな事件性を導入することが出来るのだろうか?案外、そこでも狩野英孝トリックスターとしての才能を発揮するのかもしれないけど。