PLANETSのお笑い特集「お笑い批評宣言」について

宇野常寛氏主催の批評誌「PLANETS」で、今回”お笑い批評宣言”と銘打って、お笑い特集をするということだったので、楽しみにしていたのだけど、内容は、その特集名の平凡さと同様に、期待を下回るものだった。

特集の核をなす座談会「お笑いNOW&THEN−松本人志から「お笑いブーム」へ」(参加者:ラリー遠田×萩上チキ×黒瀬陽平×大見崇×宇野常寛)を見てみよう。

1.宇野氏の企画意図: 95年から急速に社会構造が変化し、それに伴って文化空間も変化している。95年以降最も隆盛した国内文化のひとつが”お笑い”である。そして、それを語る批評的言語はこれまでなかった。その  ために、今回の特集を組んだ。

2.遠田氏による95年以降のお笑い状況の整理: 以下2つの流れが同時に起こっている。
  1)94年”ボキャ天”→99年”オンバト”→03年”エンタの神様”→07年”レッドカーペット”の流れ 
  2)M-1、R-1、キングオブコント、S-1などといった、お笑いを”権威づけ”する流れ 

3.萩上氏の状況整理:
  1)現在のお笑い文化は、”キャラ戦争”が最も活発化している空間。競争の激しい中で瞬間的に笑いを取るために、”キャラ”が必要。一方で、そういった状況への反動から、”お笑いの王道・保守本流はだれか”と    争う人たちが出てきた。

  2)95年からではなく、お笑いを創世記から俯瞰すべき。つまり、
    ①〜70年代: 舞台の時代(ドリフ、きんちゃん)
    ②80年代: スタジオの時代(漫才ブーム、たけし、ダウンタウンとんねるずetc.)
    ③90年代: ロケの時代(電波少年、ロンブーetc.)
    ④現代: キャラ=モニターの時代(オンバト以降)

  3)お笑い批評に求められるもの: 
    ①お笑いの系譜学
    ②お笑い空間を閉じた作品としてどれだけ語れるか

整理の前提として、松本人志=95年的なものと整理し、それ以前/以後に分けるというのは(宇野氏もある程度認めているようだが)あまりにも乱暴、というより、端的に妥当性にかけるだろう。お笑いの系譜を、宇野氏=東氏的な図式にむりやりあてはめようとしているだけのように思える。松本人志は、実は、80年代から現在をつなぐひとつの巨大なヒントであり、他のジャンルと違う、お笑い独自の展開をドライブした存在であるのだが、その意味は大きく且つ多重的なので、整理するには、少し準備が必要だ。この特集では、現在のお笑いを語ろうとするあまり、松本人志を、”95年的なもの”ということで、ゼロ地点としてかっこに入れることで、棚上げしてしまったようである。いわば、語れないので、一旦かっこに入れてしまいました、ということだろう。

荻上氏がしきりに、現在を、”キャラ”の時代だと言っているのにも、既存の図式を前提として語ろうとする、同種の違和感を感じる。お笑いの世界では、常に”キャラ”は極めて重要なものである。かつての吉本新喜劇でもそれはそうだ。また、過当競争が激しくなったときに、瞬間的に笑いを取るための戦略として”キャラ”が重要になり、だから今テレビではキャラが溢れてるという状況分析も、それはまあそうだろうが、それは単に”若手が異常な数、テレビに出れる状況があり、競争が激しくなっている”という状況論以上のものではない。目立つためにキャラを立たせるのは、芸人にとって当たり前のことであり、今に始まったことではない。今がキャラの時代であり、”ほら、お笑いでもそうなっているでしょう?”と言うのは、自分の理論に執着するあまり、単に事実を捻じ曲げているだけだ。

”お笑い”を語る言葉を作る、もしくは見つけるためにこの特集が組まれたのだとすれば、そもそも上記のように、彼らは、自分たちが他のジャンルで取得した図式をもって、その枠を”お笑い”にもあてはめようとしているだけなのだから、それは、意図に反して、笑いを収奪する結果にしかなっていない。まだ語られていない”お笑い”という金脈を発見して、金のないならず者たちが、舌舐めずりしている感じである。お笑いを”批評”する前に、”批評”とは何なのか自問すべきではないだろうか?

ちなみに、ラリー遠田氏の整理は、基本に忠実で、大枠には異論はないが(個別では、たとえば”あらきび団”の東野の役回りとかについて、違うと思うが)、逆に言えば、異論を唱えるほど特別なことは言っていなかった。