PLANETSのお笑い特集「お笑い批評宣言」について

宇野常寛氏主催の批評誌「PLANETS」で、今回”お笑い批評宣言”と銘打って、お笑い特集をするということだったので、楽しみにしていたのだけど、内容は、その特集名の平凡さと同様に、期待を下回るものだった。

特集の核をなす座談会「お笑いNOW&THEN−松本人志から「お笑いブーム」へ」(参加者:ラリー遠田×萩上チキ×黒瀬陽平×大見崇×宇野常寛)を見てみよう。

1.宇野氏の企画意図: 95年から急速に社会構造が変化し、それに伴って文化空間も変化している。95年以降最も隆盛した国内文化のひとつが”お笑い”である。そして、それを語る批評的言語はこれまでなかった。その  ために、今回の特集を組んだ。

2.遠田氏による95年以降のお笑い状況の整理: 以下2つの流れが同時に起こっている。
  1)94年”ボキャ天”→99年”オンバト”→03年”エンタの神様”→07年”レッドカーペット”の流れ 
  2)M-1、R-1、キングオブコント、S-1などといった、お笑いを”権威づけ”する流れ 

3.萩上氏の状況整理:
  1)現在のお笑い文化は、”キャラ戦争”が最も活発化している空間。競争の激しい中で瞬間的に笑いを取るために、”キャラ”が必要。一方で、そういった状況への反動から、”お笑いの王道・保守本流はだれか”と    争う人たちが出てきた。

  2)95年からではなく、お笑いを創世記から俯瞰すべき。つまり、
    ①〜70年代: 舞台の時代(ドリフ、きんちゃん)
    ②80年代: スタジオの時代(漫才ブーム、たけし、ダウンタウンとんねるずetc.)
    ③90年代: ロケの時代(電波少年、ロンブーetc.)
    ④現代: キャラ=モニターの時代(オンバト以降)

  3)お笑い批評に求められるもの: 
    ①お笑いの系譜学
    ②お笑い空間を閉じた作品としてどれだけ語れるか

整理の前提として、松本人志=95年的なものと整理し、それ以前/以後に分けるというのは(宇野氏もある程度認めているようだが)あまりにも乱暴、というより、端的に妥当性にかけるだろう。お笑いの系譜を、宇野氏=東氏的な図式にむりやりあてはめようとしているだけのように思える。松本人志は、実は、80年代から現在をつなぐひとつの巨大なヒントであり、他のジャンルと違う、お笑い独自の展開をドライブした存在であるのだが、その意味は大きく且つ多重的なので、整理するには、少し準備が必要だ。この特集では、現在のお笑いを語ろうとするあまり、松本人志を、”95年的なもの”ということで、ゼロ地点としてかっこに入れることで、棚上げしてしまったようである。いわば、語れないので、一旦かっこに入れてしまいました、ということだろう。

荻上氏がしきりに、現在を、”キャラ”の時代だと言っているのにも、既存の図式を前提として語ろうとする、同種の違和感を感じる。お笑いの世界では、常に”キャラ”は極めて重要なものである。かつての吉本新喜劇でもそれはそうだ。また、過当競争が激しくなったときに、瞬間的に笑いを取るための戦略として”キャラ”が重要になり、だから今テレビではキャラが溢れてるという状況分析も、それはまあそうだろうが、それは単に”若手が異常な数、テレビに出れる状況があり、競争が激しくなっている”という状況論以上のものではない。目立つためにキャラを立たせるのは、芸人にとって当たり前のことであり、今に始まったことではない。今がキャラの時代であり、”ほら、お笑いでもそうなっているでしょう?”と言うのは、自分の理論に執着するあまり、単に事実を捻じ曲げているだけだ。

”お笑い”を語る言葉を作る、もしくは見つけるためにこの特集が組まれたのだとすれば、そもそも上記のように、彼らは、自分たちが他のジャンルで取得した図式をもって、その枠を”お笑い”にもあてはめようとしているだけなのだから、それは、意図に反して、笑いを収奪する結果にしかなっていない。まだ語られていない”お笑い”という金脈を発見して、金のないならず者たちが、舌舐めずりしている感じである。お笑いを”批評”する前に、”批評”とは何なのか自問すべきではないだろうか?

ちなみに、ラリー遠田氏の整理は、基本に忠実で、大枠には異論はないが(個別では、たとえば”あらきび団”の東野の役回りとかについて、違うと思うが)、逆に言えば、異論を唱えるほど特別なことは言っていなかった。

ネタ見せ番組と批評性−あらびき団、レッドカーペット、エンタの神様

こないだ、久しぶりに更新したブログの中で、「エンタの神様」について少し触れた後、改めて番組の本放送を見ながら、どうして、この番組を面白いと感じないのか、むしろ不快な気持ちになってしまうのか、ということを改めて思った。このブログの中で、お笑いに関する悪口は基本的に書きたくないと思っていたのに、つい書いてしまった、ということで後味が悪かったせいもある。ただ、どうも、「エンタの神様」だけは違う気がするのだ。

少し遠回りになるかもしれないが、お笑いの「批評性」ということから考えてみる。作品を提供する側(この場合は、芸人および番組サイド)にとっての「批評性」の意味を簡単に言ってしまえば、まずは、
①「観客の視点で考える」
ということになるだろう。そして、それと同時に、
②「作品を見る新たな視点、角度を観客に提供する」
ということになるのではないか。

「観客の視点で考える」ということは、もちろん、独りよがりなものを提供しても伝わらない、ということである。見る側がどう受け取るのかということを前提として、”伝える”ということを第一義に、ネタは提供されなくてはならない。一方で、だからと言って、観客にただ迎合する、ということでは駄目なわけで、「お笑い」なら「お笑い」に新しい意味を付加するような、「お笑い」の枠組みを広げるような新たな視点が同時に提示されたときに、見る側は、作品の「批評性」を感じるのではないか?
言い換えれば、お笑いの「批評性」とは、提供する側が意識してようがしていまいが、お笑いの歴史なり文脈というものに対して、何かを発信しているかどうか、ということになるのではないだろうか?なぜなら、観客とは、これまで過去に現れてきた数々のネタやお笑い番組を見てきた者たちのことであり、作品を見る新たな視点、とは、その形式の歴史に新たに付け加えられる視点のことだからだ(付け加えると、この場合の”歴史”は線上に過去から未来へと伸びていく、”進歩”していくものではなく、らせん状にループしながら続いていくようなものだろうと思うけど)。

一応、そういう風に整理した上で、この批評性ということを、ネタ自体ではなく、ネタ見せ番組にあてはめて考えてみる。それぞれのネタ番組の中で、批評性は、どのように機能しているのか?もしくは機能していないのか?

例えば、「爆笑レッドカーペット」の批評性とは、ネタや芸人の並列化、ということ以上に、司会者の今田耕司の、それぞれのネタが終わったあとの”コメント”により機能しているように思える。
少し古いが、渡辺直美が最初にレッドカーペットでビヨンセのモノマネをした直後、まだ客席の空気が微妙な中、今田耕司が「使ってる筋肉はビヨンセと同じ」とコメントしたとき、渡辺直美の芸の見方が、観客に共有された。いままで見たことのない、どう笑っていいのか分からない作品に関して、観客にその見方、笑い方を伝えたわけだ。今田耕司は、レッドカーペットの中で、常にそのような形で、作品への接しかた、見る角度、もしくは愛(め)で方、というものを見る側に伝えようとしていて、それが、あの番組の批評性を担っている部分が大きい。

一方、「あらびき団」についてはどうか。東野幸治のコメントが同様の役割を担っているか・・・、というと、そういうわけではないだろう。むしろ、それぞれの芸に対する番組側の編集が、その役割を担っているようだ。基本的にいじわるなカメラワーク、ネタの途中での突然の終了、など、いい意味での”悪意”ある編集が、あの番組に登場する”あらびき芸”の見方、アングルを観客に伝えてくれているのだと思う。逆に、そういう役割がすでにあるから、東野幸治は、あんなに自由なコメントが出来ているのだろう。

では、「エンタの神様」はどうか?
どうも、この番組では、上記2つの番組で見られるような「批評性」は感じられない。

① 観客の視点で考える。

これは、プロデューサーを中心に考えられているようだ。そして、②の「作品を見る新たな視点、角度を提供」するかわりに、

② 観客に合わせるべく、作品そのもの、芸そのものを管理、操作する。

という態度が見受けられる。つまり、作品を見る新たな視点を提供、ではなく、「(既存の)観客の視点に合わせた作品を提供」しようとしているようだ。一言でいえば、ただ観客に迎合しようとしているわけだが、その場合の観客とは、番組側により、(マーケティングという名のもと)勝手にイメージされた観客にすぎない。

先にあげたふたつの番組が、あくまで”自由に”表現された(ときには破天荒な)それぞれの作品にあくまで寄り添いながら、その作品を見る視点を観客に提供しようとしているのに対し、「エンタの神様」は、逆のベクトルを持っているのだ。「観客の視点」という名のもと、作品の”自由”を奪おうとしている。そのとき、芸は、作品であることをやめ、芸人は番組に使われるサラリーマンにすぎなくなる。

このブログでも何度か書いたけど、お笑いは、「なにも捨てない」ものだし、「最も面白くないものが最も面白い」という究極の逆転を生きるものだ。そこでは、常に、視点のめまぐるしい移動が生じている。予期せぬ視点の転移にふれることこそが、お笑いを見るものにとってのなによりの喜びだろう(と、僕は思っている)。「エンタの神様」は、そのようなお笑いの最良の部分を抑圧すべく機能しているわけで、(先に書いたような意味での)お笑いを愛するものとしては、やはり批判すべきものではないだろうか。

ロンドンハーツ、永井豪、そして、結局、レッドシアター

昨日、ネタ見せ番組の勢いが全体的に落ちてるんじゃないか、ということを書きながら、ロンドンハーツのことを考えた。いわゆる「ネタ」が見れる番組ということに限定せず、広くバラエティ番組という枠で考えたときに、「ロンドンハーツ」という番組は、やはりすごいんじゃないか、と改めて思ったのだ。
この数カ月を振り返っても、元々ミュージシャン志望だった狩野英孝に、歌手デビューの話を持ちかけるドッキリ(50TA)は本当に出色の出来だったと思うし、3月ぐらいにやっていた、10周年を振り返る特番を見ていても、歴代の、出川哲郎青木さやか、そして狩野英孝のドッキリは、その仕掛けの大きさ、予想を越える展開に目が離せなかった。芸人という素材の旨みの引き出し方が半端でなく見事だと思う。

http://matodoga.blog24.fc2.com/blog-category-37.html#entry1481

ロンブー淳的な能力というのは、「ネタ作り」=クリエイター的なそれというよりは、仕掛け人というかプロデューサー的な能力という整理に一旦はなるのだろうが、例えば、作家や漫画家が実際に創作する現場のことを思ったときに、ロンブー的なありかたと、クリエイターたちのポジションには、実は大きな隔たりはなさそうである。小説家が、事前に考えた小説のアイデアを、実際に書かれつつある言葉の運動による要請に従い次々に変更していくことはよくあることだし(いわゆる、人物が自分で考え出す、とかいうのも、そういう状態である)、むしろそういう作家的なありかたこそ、言葉という物質性と真に向き合う、その困難を受け入れた書き手として歓迎すべきであろうとも思うわけだが、漫画家でも、例えば巨人・永井豪のことを思ったときに、同様のことが言えるだろう。若干の神話化とともに語られるところでは、永井豪は、まさに、書かれつつある物語の要請、物語の欲望のみに忠実に殉ずる書き手である。例えば、「デビルマン」というあの震撼すべき傑作の結末を、彼は決して前もって構想していたわけではない。連載を続けているうちに、何か他の力に引き込まれるようにして、最終的には、ひとコマ書いてはベットに倒れこむような消耗の中で、あの見事な最終ページを作り上げたのだったし、また、「バイオレンス・ジャック」という、10年なりの年月をかけて書き継いだ長大な物語が、実は「デビルマン」の続編であったことを、連載の終盤になり、作者自身も知ることになったりもする。(実際の物語の展開上も、ある人物を重要なキャラクターとして登場させながら、次の瞬間にはあっさりと殺してしまい、そのことに作者自身が驚いたりしている。作者の意図に反して、その人物を作品が必要としなかったのである)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF

一方で、「ロンドンハーツ」の仕掛けを考えたときに、そこには、仕掛け人が頭で考えた展開、自己完結めいた想定もある程度ありつつ、その過程において、あくまで仕掛けの対象、つまり、前提として企画のことを知らずどう動くか分からない”他者”と向き合い、不測の事態を処理しながら、あるストーリーを、自らも驚きながら紡いでみせる、語り手の姿が浮かび上がる。作り手側の想定、思惑を、他者(登場人物)が大きく超えていくときに、傑作が生まれるのである。それは、言葉の物質性や物語の自働性に向き合いながら、書き進めている自分自身が目の前に起こりつつある事態に驚く、つまり、作品を書くことが同時にひとつの”事件”を生きることでもあるような、優秀な書き手たちのあり方と原理的に同じものだ、と言うことができるだろう。

そこから翻って、「ネタ」について考えれば、「ネタ」は決して、その”出来の良さ”を競うものではない。自己完結こそが、最も避けられねばならないものだ。「ネタ」もまた他者に向かって開かれ、ひとつの事件として生きられるものでなくてはならない。例えば、「爆笑レッドシアター」は、そんな事件性を導入することが出来るのだろうか?案外、そこでも狩野英孝トリックスターとしての才能を発揮するのかもしれないけど。

4月改編後のネタ見せ番組−レッドカーペット、レッドシアター、あらびき団、エンタの神様など

4月の番組改編から2か月が経った。今回、僕として大きな変化と感じていたのは、

1.”爆笑レッドカーペット”が水曜10時から土曜7時というゴールデンタイムに繰り上がった。
2.深夜枠だった”THE THREE THEATER”が、”爆笑レッドシアター”と名前を変え、水曜10時に繰り上がった。
3.登竜門”新しい波16”が終了した。

という3点。また、今回の番組改編とは直接には関係がないが、

1.あまり東京のテレビで紹介されてこなかった若手芸人を多く紹介していた”やりすぎコージー”も、昨年10月から月曜9時枠になった。
2.いつの間にか、”エンタの神様”に、”レッドカーペット”や”あらびき団”で注目を集めた芸人たちが多く登場するようになった。

という変化についても、注目しておく必要があるように思う。

ゴールデンタイムにあがることは、番組にとっては名誉なことだが、ターゲットが変わることにより、内容自体の先進性が失われてしまう。それは不可避なことだろう。実際、”やりすぎコージー”は試行錯誤を経て、ゲーム的なものやときには動物ものなども取り入れながら、王道のバラエティ番組の方向へと向かっている。異端的な芸人が大きく取り上げられる機会もそれに伴って減ってきたように思う。
”レッドカーペット”についても、天津木村が出なくなったことが象徴するように(*註)、やはり登場する芸人、ネタ自体に、ある枠がかかったように思う。ネタや新しい芸人に驚く、という体験は残念ながら、最近ない。

   (*註: と思っていたら、本日の放送でがっつり登場し、且つ飛距離のある詩吟ネタを披露していて素晴らしかった。しかも、ゴルフの片山がレッドカーペット賞を天津木村にあげていた。普段、レッドカーペ           ット賞は意味がなく、意味がないことがいいと思っていたが、今回彼が受賞した意味は案外大きいのではないか?さすが片山、勘どころをおさえている)。

それはそれで想像通りだし、致し方ないこととも思っていたのだが、しかし、最近、これらの番組をさほど面白いと思えなくなったのは、本当にゴールデン進出だけのせいだろうか、という疑問がわき始めた。というのは、他のネタ番組でも、同様の凡庸化が進行しているように感じるからだ。

例えば、”あらびき団”。最近、新しく出てくる芸人やネタについて、”あらびき”を通り越して、単なるジャンクであったり、テレ東の”イツザイ”の”インディーズ芸人オーディション”的なものが増えてきたように思う。また、いわゆる”あらびき団”的なはずし方を、意図的に狙ってくる芸人も増えてきたように思う。つまり、自己イメージの模倣が生じている。それらのことが、この番組の驚きを奪っている。

また、もともと僕は好きではないが、”エンタの神様”の節操のなさには目を覆うものがある。この番組の最大の罪は、”レッドカーペット”や”あらびき団”で輝いた芸人をそのまま引き抜いてきて、且つ、その輝きを奪う点にある。”あらびき団”でその面白さをきちんと引き出してもらえた芸が、あの、ただだだ広い舞台と、白痴的な観客と幼稚な演出により、見事に形骸化されているのだ。そこに残るのは芸の残骸だというのは、言いすぎだろうか?

少し話はずれるが、そもそも、”エンタの神様”が数年前に勢いのあった頃(”ギター侍”とか”桜塚やっくん”だっけ?)、ひとつの思いつきのようなキャラクターを立てながら芸能人の噂話に突っ込んだりして共感の笑いを取る、というパターンだらけになっていたのもひどかった。僕は当時、この番組のことを、”ネオコン新自由主義的なお笑い番組”と言っていて、周囲から、”はあ?”と言われていたのだけど、つまり、政治的(演出的)には超保守であり管理的、経済的(出番や尺的)には競争加速、使い捨て、という、当時のブッシュ的醜悪さを共有しているように思っていた(まあ、そういう意味では”時代の精神”にあっていたとも言えるかも。実際、ブッシュの言葉の戯画的側面(悪の枢軸国、とか、十字軍がどうの、とか)と、”エンタ芸人”の戯画的キャラクターは、同種の(単純な)”物語への回帰”という、近代後のひとつの動きを共有しているのだ)。

まあ、”エンタの神様”の悪口はそれくらいにして、楽しいことを考えたい。”爆笑レッドシアター”についてである。期待通り、時間があがり、枠も1時間になった。素晴らしいことだ。
番組的には、今のところ、はんにゃの金田が人気を引っ張っている。ずくだんずんぶんぐんゲームは、個人的には、昔、松本人志が”ごっつ”でやっていたダンスの先生ネタと同じじゃん、とつい年寄りじみたことを言いたくなったりもするが、まあ、楽しいので許す。期待のジャルジャルは、まだ弾けていない。今のところ、ネタは彼らの持ちネタをアレンジしたものばかりだし、そもそも、彼らはもっと長くやったほうが面白いのだ。うっちゃんが、”あいつらはいつも、ひとつのことに拘る”と言っているが、そのとおりで、そのひとつのことへのこだわりがグルーヴを得るには、もう少しだけ尺が必要なのだ。東京に引っ越してきたようだし、今後、どうアジャストして、弾けてくれるのか、まだまだ欲求不満ではあるが引き続き期待して見守りたい。ジャルジャルについては、密かに今年秋の”キング・オブ・コント”あたりで大化けしてくれないものか、と勝手に期待しているのだけど・・・。柳原加奈子は、本当にすごい。司会もただただいつも、”すごい”と言っているが、こないだゲストの清水ミチコが、”あんな先輩がいたら、自分はデビューしなかった”と言っていたのには、軽く感銘を受けた。あの溢れる才能は一体なんなんだろう?
ロッチ、我が家も、ほんと苦しくならないというか、実力があるんですよねえ。ただ、フルーツポンチとしずるはちょっと苦しくなってきてる気がする。狩野英孝は、みんな悪く言ってるけど(最近、愛情のある悪口なのか、ほんとに悪口なのか、よく分からなくなってきた)、”ロンドン・ハーツ”を見て以来、僕はどうしても嫌いになれない。ある意味、すごいと思う。
いずれにしても、この番組はとにかく毎週コントを自分たちで作ってるわけで、それは大変なことだ。いずれしんどくなる。長く続けて、且つ彼らのタレント的な力も引き出す意味で、番組の構成は(それこそ、ゲーム的なもの、ロケ的なもの、大喜利的なもの、連続劇コント的なものなど)王道パターンをもっと取り入れてもいいのでは、とファン心理から、少しはらはらしながら見ている。

そんなわけで、今テレビのネタ番組の中で、”期待”という言葉を使えるのは、”レッドシアター”だけである。まだまだ全体的に”硬い”感じがするが、のびしろは大きいだろう。
一方で、驚きとともに発見する新たな笑いの形、もしくはなぜ自分がそんなに笑っているのか分からないまま笑ってしまう、そんな体験は、今度はいつ訪れるのだろうか。不安を感じつつ、あくまでその出会いを信じたい。

閑話休題 多和田葉子 「溶ける街 透ける路」 

数日間の予定でヨーロッパに行かなくてはいけなくなって、出発の前夜に荷物を詰めていると、飛行機ん中でこれ読んだらいいよ、とAが一冊のハードカバーを差し出してくる。多和田葉子の「溶ける街 透ける路」というエッセイ集。多和田葉子の本は僕が最初に好きになってAに紹介したが、今では彼女のほうが良い読者になっている。
この本は、作者が朗読会や大学の招待などで廻ったヨーロッパやアメリカのそれぞれの土地についての短いエッセイをまとめたもので、2006年に1年間、日経新聞土曜版に掲載されたいたものだ。
多和田葉子の小説には、なんというか、書かれている文字そのものが体温を持っていたり、体をくねらせたりするような不思議な体感があって、いつも驚嘆させられるけど、以前読んだ「エクソフォニー」もそうだったけど、エッセイも本当に素晴らしい。肉体感覚、と一言で言うとつまらないけど、体の感覚を全開にして街と向き合っているような、その肉体感覚というのが文字そのもののような、そしてその感覚を束の間共有させてもらっているような、幸せな時間を味わうことが出来た。
例えば、彼女がフランクフルトのブックフェアに出向いたとき、慌ただしく会場内を駆け回っている中で、ふいに、地面に鳥のヒナが落ちているのを見つける。彼女は考える間もなくヒナを手の平にすくいあげ、両手に包み持ったまま、インタビューの会場に向かう。
 
「インタビューの最中、手の中で鳥がもぞもぞと動き出した。「何もってるんですか」と訊かれて、「鳥です」と答えた。ドイツには「鳥を持っている」という慣用句があり、「ちょっとおかしい」という意味だ。わたしはこの日、文字どおり鳥を持っていたのだ。」

この文章は、その後、次のように続き、結ばれる。

「用事がすべて終わると会場を出てあてもなく町を歩いた。目の前にふいに木のうっそうと茂った公園が現れた。驚いてあたりを見回すと、わたしはそれまで知らなかった緑の町フランクフルトに囲まれていることに気がついた。ずっと手の中にいたせいか鳥の身体が暖かくなっている。手を開けて見ると、鳥と目が合った。風が吹いて、頭上で枝がざわざわと鳴った。その時、鳥はぶるっと身震いして、細い爪で強くわたしの手を蹴り、飛び立っていった。なんだ、飛べたんだ。わたしはだまされたような気持ちで、飛んでいく鳥の後ろ姿を見送っていた。」

すっと、町や目の前のものとすぐさま肉体的な交感をしてしまう、免疫不全のような感覚。感嘆しながら、しかし、実際に自分が海外に出たり、仕事をしている現場のことを思うと、脅えのような気持ちに捉えられる。そんな風に、自分を見知らぬ何かに対して開いてしまうことは、とても怖いことだ。

ドゥルーズ ベケット ビーグル38

ジル・ドゥルーズは、サミュエル・ベケットがテレビ放送用に書いたシナリオを巡って、次のようなことを言っている。
http://www.amazon.co.jp/%E6%B6%88%E5%B0%BD%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE-%E3%82%B8%E3%83%AB-%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4560019754

「消尽したもの、それは疲労したものよりずっと遠くにいる。(中略)疲労したものは、もはやどんな(主観的)可能性ももたない。したがって最小限のどんな(客観的)可能性も実現することができない。それでも最小限の可能性だけは残っている。人は決して可能なことのすべてを実現するわけではなく、実現するにつれて可能なことを生みだしさえもするからである。疲労したものは、ただ実現ということを尽くしてしまったのにすぎないが、一方、消尽したものは可能なことのすべてを尽くしてしまう。疲労したものは、もはや何も実現することができないが、消尽したものは、もはや何も可能にすることができないのだ。」

ここでいう「可能性」というのは、あらゆる可能性の中から何かを排他的に選びとることであり、それは本質的に言葉というか意味作用が不可避的に取らざるを得ない戦略である。何かを意味するということは、その何かを選び=実現し、それ以外の可能性のすべてを排除するということだ。その排他的な言葉の構造の中で、何かを選び取り続けることの先には疲労があるが、消尽とは、選ばないこと、可能性を行使しないこと、つまり意味作用の構造そのものを無化する地点にあると言えるかもしれない。

では、その場合に、老人とは一体なにものだろうか、という恣意的な問いを立ててみる。
老人とは、あらゆる可能性の中から一瞬ごとにひとつの何かを排他的に選択し続けた、つまり実現ということを尽くした存在の比喩であり、それは疲労したものであるとまずは言えるだろう。
しかし、一方で、一般的な老人の更に先には、もうひとつ別の次元が存在しているように思える。それはたとえば、”ぼけ老人”といったものだ。”ぼけ老人”とは、疲労の先にあり、意味作用の構造そのものを突き抜けた存在の比喩であり、それは消尽したものであると言えるだろう。

「ビーグル38」の老人漫才は、そのふたつの次元を提示しているように思える。

http://www.youtube.com/watch?v=lVwW6o91RlE

ぼけの加藤の吐息の中には、あらゆるぼけ、あらゆる言葉の可能性が、行使されないまま残っている。吐息はすでに言葉以前のものであり、何かを実現する契機を失うと同時に、なにものも排除することはない。一方、つっこみの能勢は、その吐息の中に、ひとつの意味を実現する。あくまでも、あらゆる他の可能性を排除し、ひとつの意味を読み取ることをやめない。
つまり、僕たちの前に立つふたりの老人とは、消尽と疲労のあり方そのものであり、意味作用の明滅だ。

漫才という形式そのものが、ぼけ=選ばれなかった可能性の提示、つっこみ=既に選んでしまったひとつの可能性への回帰、という構図からなっている以上、それは本来的に消尽と疲労というふたつのあり方に関わるものだと言えるだろう。意味作用はそこで常に明滅しているのだ。

そういう意味で、ビーグル38の老人漫才とは、消尽と疲労としての漫才という形式の「可能性」の中心を指し示すものなのかもしれない。

キュートン=椿鬼奴+増谷キートン+くまだまさし+アホマイルド

お笑いブログとか言っている以上、今さらかもしれないが、キュートンについては、触れておかないわけにはいかないだろう。

椿鬼奴増谷キートンは、以前BODYというユニットを組んでいた。謎のキャラクター”ピンク”が衝撃的で、初めて見たときには、一通り笑い転げた後、一体自分はなんで笑ったのか?ピンクのタイツで全身、顔まで隠した男が、額に”愛”と書いたはちまきをし、手に芋と鞭を持って、じっとこちらを向いているという、考えようによってはそれ以上恐ろしいものもそうないだろうものを見て、何故そんなに笑いが出たのか、ということが自分で分からず、思わず唸ってしまった。ネタの(説話論的な)意味を分析することほど意味のないことはないと思うので、そこはそれ以上踏み込まないとしても、笑いのひとつの臨界点を示したユニットだったことは間違いないだろう。

お笑いを見ていて、何故面白いのか分からないまま笑い転げる、ということほど、幸せな出来事はないと思う。

(BODY)
http://www.youtube.com/watch?v=eIGyQRVRXjs

そのふたりに、更にくまだまさしアホマイルドなどが入ったユニットが「キュートン」。結成は随分前らしいが、今年に入ってから、あらびき団には既に3回出場している。謎の殺人集団キュートンが音楽に合わせてポージングする、という見たことのないネタだが、この殺人集団の世界観が素晴らしく、かっこいい。笑ったことのない笑いがここにある。今、お笑いファンでキュートンのことを語らないのは嘘でしょう、とまで思います。
単独ライブ、本当に行きたかった・・・。

http://www.youtube.com/watch?v=SeY5XSJ5rXA
http://www.youtube.com/watch?v=0NwouTPO2ks&feature=related